江差殺人事件

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第4章その3

「じゃあ、朝飯食ったらそろそろ行くね」圭介は百合子にそう言った。昨日は疲れている割にはあまりよく寝られなかった。それは百合子も同様だった。だから、リビングで二人は朝早くから話していたのである。

玲子と百合子は同じ部屋で休んでもらったので女同士でけっこう話が弾んだようである。今、百合子からその話のあらましを聞いたところだった。

玲子はお腹の子を産むつもりであるということ。それは、これを逃すともう年齢的にもう二度と子供を産めないのではないかという漠然とした不安があるということ。なにより圭介の胸を打ったのは玲子の「この子はあの人の生まれ変わりよ。堕せはしないわ」という言葉であった。

それを聞いて、圭介は目頭が熱くなった。玲子は昔から前向きに生きているんだなと思ったと同時に、それは、夫を新婚早々喪った女の一筋の希望なのかもしれないなという感慨が一挙に胸にこみ上げてきたからであった。

「おはようございます。圭介、百合子さん」玲子がリビングに現れて明るく挨拶した。

「ああ、おはよう。もう少しゆっくり寝ていたらいいのに」と圭介が言ったのに対し「まさか、いくらなんでもよその家でそんなことはできないわ」玲子は明るく笑った。

「それより、圭介に江差でいろいろ動いてもらうのはありがたいんだけど...でも、死んだあの人が戻ってくるわけでもないし...あまり無理しないでね」

「ああ、でもあんないやつがあんな風に無惨に殺されたのを思うとじっとしてはいられないね。玲子のためにも僕のためにも全力を尽くすよ」圭介が力強くそう言ったのに対し、玲子は涙をこらえながら頭をさげた。

「あらあら、なんにもないけど食事の支度ができたわよ。さあさあ召し上がれ」松江のかん高い声がその場の雰囲気をいっぺんに変えてしまった。

「あ、おかあさん、なんにもお手伝いしないでごめんなさい。」百合子があわててそう言ったが、松江は「あら、まだいいのよ。正式にお嫁さんになったら家のことはぜーんぶやってもらいますから。今のうちだけね」ウインクしながらそう言った。

松江と玲子は仲良しである。圭介から見るとひょっとしたら実の息子のこの俺よりも結びつきが強いのではないかと錯覚することがある。それは、いつだったか松江と百合子が圭介の悪口を言い合っているのをひょんなことから聞いてしまったことによる。

「ところで、玲子のおかあさんはだいじょうぶなの?」圭介は玲子の母親が心労のため倒れたということを今し方百合子から聞いたばかりであった。

「ええ、入院したから当座は大丈夫だと思うわ。元々心臓が弱かったところに今回のことがあって...私、心配だから今日、帰ります」

「そうか、それは心配だね」

「ええ、でも...なにか不吉なことを言っていたのがずっと気になっているのよ。おかあさんは江差警察署から電話があって、もしかしたら文彦さんが亡くなったと聞いたとき『これは祟りだ』って言ったのよ。えっ、なにそれ?って聞いても仏壇の前で念仏を唱えるばかりで...そのうち、様子がおかしくなったので救急車を呼んだのだけれど...どうも、文彦さんとおとうさんの事故死と結びつけて考えているようなの」

「ん?細谷のおとうさんが亡くなったのは確か10年前だったね。あの時、僕は通夜には行ったけど、会社の研修所に入っていて遅れた上に、すぐに戻らなければならなかったので詳しい話は聞いていなかったんだけど」

「ええ、文彦さんのおとうさんは、上ノ国の国道から車ごと海に落ちて死んだの」

「えっ、それは本当かい?」

「はい、そうよ。警察では事故死ということだったのだけれど...どうも、そのときから健康状態は優れなかったみたいなの」

「もしかしたら、その事故のことを調べに上ノ国、江差に来たと言うことはないのかい?}

「ああ、それは私も訊いたわ。でも、文彦さんは頑なに否定して、子供ができたから上ノ国の海に眠っている親父に報告して来るんだ。そう言ったの。私も一緒に行くって言ったら、あの人は君のお腹には僕の大事な子供がいるから無理しちゃいけないって言ったのよ...あのとき無理にでも止めていればこんなことにはならなかったと思うと...私」玲子はそこまで言うと堰を切ったように泣きはじめた。

おふくろがなだめに玲子のところに駆け寄ったが、百合子は上を向いて涙をこらえていた。僕は、いたたまれなくなって朝食もとらずに江差に向かったのである。

by しょう  1999.11. 9 

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