江差殺人事件
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第1章その3
「西平警部補、今日はもうお帰りですよね。相談に乗っていただきたいのですが。」萩原巡査部長が西平にそっとつぶやいた。
「ほー、いったいどうしたのかな。いいよ、じやー先に居酒屋「絵夢」に行っていてくれないか。」
萩原巡査部長から誘いを受けたのはこれがはじめてであった。いや、彼女が誰かを誘うなんてことはいまだかつてなかったことである。署内ではあこがれの君も身持ちの良さでは定評があった。
それにしても、いったいなんだろう。深刻な話でなければいいのだが。西平は明日の捜査について、部下と話し合った後、当直の刑事に「なにかあったら、携帯に電話してくれ。何時でもかまわんからな」そう言い残して署を後にした。
江差警察署は上野町にあった。昔ながらの住宅街で近くに飲食店はないのだか、そこは狭い町である。5分も歩けば新地である。昔はこのへんは遊郭の町として知られていた。今でも歓楽街である。
「絵夢」は生協の横の小路をはいったところにある。
「こんばんは!」
「あらー、西平さん、お久しぶり」
「おお、かあさん、もうすっかり落ち着いたのかい。」
「はい、お陰様でというか、貧乏暇なしでさ。働かないと食べていけないのよ」美津乃は、そう言ってけらけら笑っている。
「いや、良かったね。男の子だったんだね。名前はなんて付けたの」
美津乃は、つい最近3人目の子供を出産していた。それにしても回復が早い。安産型なのだろう。
「はい、「海紘(みひろ)」ってつけたのよ。海のように心の紘い人になってほしいと願いをこめてね。」
「そっかー、海紘か。いい名前だね。」
「はい、ありがとうございます。上二人が女の子だったから、それはもうすごいプレッシャーよ」
「あ、それはともかくakkoさんがお待ちかねよ」
「絵夢」はカウンターが10席ほどの小さな店だが、小上がりもある。萩原巡査部長は、こちらに背を向けて座っていた。
「いや、遅くなってすまん」そう言いながら西平は萩原巡査部長向かいに腰をおろした。
「あ、いえいえとんでもありません。私こそ忙しいさなか急にお願いして申し訳ありませんでした。さきにいただいていました。」akkoはすでに2杯目ビールを飲み干しながらにこにこしながらそう言った。
「ま、なにかつまみながらゆっくりやろうじゃないか。でもその様子だとそれほど深刻な話でもなさそうだし、安心したよ。なに、食べる」
「西平さん、今日はいい鱈がはいっので三平にしたのよ。いかがですか」美津乃がすかさずカウンターからそう声をかけた。
「お、いいね。それもらおうか。それと僕にもビールをいっぱいだけ。後は冷や酒がいいな。」
三平汁とは、味噌、醤油を使わずに塩した魚の塩気だけで調理する北海道では一般的な鍋料理である。大阪出身の西平はそのシンプルでいて魚のダシの利いた三平汁が好物であった。
西平は地元大阪の大学を卒業した後、商事会社に就職して営業をやっていたのだが、2年足らずであっさり辞めてしまった。それは、西平には対人恐怖症というか赤面恐怖症というのがあって、人と話すのが苦手であったからである。
それでも、慣れというのは恐ろしいもので、なんとかやってこれたのは意外ではあった。しかし、ストレスはたまるいっぽうで、西平は大阪から東京本社に転勤が決まったときに辞表を提出したのだ。
周りからも慰留され、親たちからもずいぶん反対されたのだが、西平はそれらをすべて振り切って我を通した。そして、その年北海道警察の採用試験を受けたのであった。
警察官の階級は、巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監の順で、ノンキャリアの場合、たいていは警部補止まりで、最高に出世して警視正なのだが、西平はそれでいいと思っていた。
なにより、仕事が楽しかったし、性に合っていると思った。それに、いくらかでも社会に貢献しているという自負もあったのである。
by しょう 1999.10. 4
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