義 経 伝 説        「義経・弁慶ロマンの会北海道」の資料から引用

 

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「旅と歴史コーナー」に源 義経 北行伝説の詳細な記事があります。

歴史のうえで、源義経は文治5年(1189) 4月藤原泰衡の急襲を受け、衣川館で果てたとされています。

しかし、生涯を通して報われることの少ない悲劇の若武者への熱い思いは、 "義経は、ひそかに平泉を出て北へ向った"という伝説を今に伝えています。青森から船で津軽海峡を渡り、北海道各地に足跡を残しながら、ついには大陸にわたり、ジンギスカンとなったという壮大なロマンにまで発展しています。

道内に残された足跡や伝説を追いながら、あなたも義経ルートを訪ねてみませんか?

待ち続ける義経の愛馬。馬岩 (江差町鴎島)

桧山道立公園の中心地、江差町。 江差港の沖に鴎が翼を広げたような形をしている島が鴎島です。 鴎島の東側、えびす浜に面した波打ち際に、白馬が首をあげ、いなないているかのように見える岩があります。ここに義経の愛馬が、今もなお帰らぬ主人を待ちわびています。

津軽の三厩で3日3晩渡海を祈り続けた義経は 白髪の老人に3頭の白い馬を与えられます。 これが三馬屋(三厩)の地名の起こりと伝えられています。

さて、江差にたどりついた義経は、 ここに愛馬を残してさらに北へ向っていきました。 白馬はそのまま白い岩となって残っています。

義経・静御前が逢えずに終わった悲話。九郎岳 (乙部町)

九郎判官義経が兄頼朝の追訴を逃れて、北海道に渡りましたが、 その最初の地といわれるのが乙部町です。 乙部で暮らしたのは約2年、その間苦悩や不安ばかりが胸に迫るのでした。

雪の吉野山で心ならずも別れた静御前の安否も気遣うことのひとつでした。 静御前もまた、義経を追って、乙部までやっとの思いでたどり着きました。 ところが、義経は静御前が北上していることも知らずに、 一足違いで乙部岳を越えていました。 悲嘆にくれる静御前は絶望の果てに乙部の川に身を投げてしまいました。

乙部の人たちは、義経と静御前の悲しい運命を語り継ぎ、 いつからか義経と逢えずに待ちわびた峠を"姫待ち峠"、 その山、乙部岳を"九郎岳"、 さらにそこを水源とする川を"姫川"と呼んで二人の悲話を偲んでいます。

祖父六条判官の弔いの地。竹森 (乙部町緑町交差点から山側に7km)

乙部で過ごす義経の胸に浮かぶのは、頼朝に捕らえられ、 首を打たれた祖父の六条判官為義の悲運。 義経は祖父の霊を弔うために、小高い山に碑を建てました。 義経は、この山を祖父の名にちなんで"六条の森"と呼んでいましたが、 今では"竹森"と言われています。

はるか奥州の地を望める桂の木 (乙部町、元和台)

奥州衣川の戦いに敗れた義経は、 弁慶らとともに乙部町の九郎岳の山麓にたどり着きました。 元和台には古い桂の大木がありますが、義経の不運を思いやり、 はるか奥州の地を望めるよう、 見晴らしのよいこの地に移したものだそうです。

弁慶が投げ飛ばした岩〜白い横縞のある奇岩〜 (北桧山町太櫓海岸)

どこへ行ってもモテモテの義経。 アイヌの娘にみそめられ、 後を追ってきたアイヌの船に捕らえられそうになった時、 弁慶がこの岩を投げ入れて、 義経の危機を救ったという伝説が残っています。

船魂明神に助けられた義経 (函館市、日和坂上)

義経一行が難所といわれる津軽海峡を渡って北海道へ来たのは、 文治5年(1189)。 津軽半島の三厩まできたものの風波が強い。 そこで信心深い義経は、船魂明神を一身に祈り、 無事渡海することができたそうです。

明神さまをまつる船魂神社は、最初は観音堂といわれており、 鰐口に応永元年(1394)と書かれていますから、 義経来道200年ほど後の建立になります。 神社横には穴があり、函館山の裏側の断崖絶壁、 山背泊寄りの穴澗に通じているともいわれています。 穴澗には多くの伝説が残され、 その主は大蛸、鰐鮫、白蛇などといわれ、 それをまつった竜神さまがあると伝えられています。

神社境内には、 義経が弓で岩をつついて湧出させたといわれる湧き水が あったようですが、今は枯れています。

荒れる矢越岬では「南無八幡大菩薩…」 (福島町と知内町の町界)

津軽半島の三厩から船を出した義経一行。 矢越岬にさしかかると、風が吹き荒れ、波が高くなってきました。 この岬にはカムイ(魔神)が棲んでいるといわれ、 沖を通る漁民を悩ませていました。

義経は、荒れてきた海で木の葉のように揺られながら、 一心に「南無八幡大菩薩…」と祈り、 弓に矢をつがえてキリリとしぼり、 岬に向って矢を放ちました。 すると、不思議なことに波風は静まり、 船は無事に難所を通り過ぎることができたということです。

義経の書いた文字?? (松前町、光善寺境内)

津軽海峡を越えて無事北海道に上陸した義経は、神仏に深く感謝、 阿弥陀千体仏を刻んで義経山欣求院に安置しました。

その後、この寺は戊辰の役で火災に見舞われましたが、 不思議にも阿弥陀像だけは焼け残り、 光善寺にあらためてまつられたということです。

境内には"義経山"と刻まれた碑が残っています。 この石碑の文字は、義経が矢尻で彫ったと伝えられています。

奇岩と伝説が語りかける神秘の自然境、積丹半島

義経を追って、高波にのまれたシララ姫伝説
積丹岬の東、入舸は昔アイヌの人たちが住んでいたところです。 義経一行は、日本海沿岸を北上、 神威岬の沖を船で通過しようとしていました。 ところが、この辺りは、風の強さと潮の流れの早い難所。 荒海に櫂を流され、かろうじて入舸に流れつきました。 首長は娘のシララに義経を介抱させ、義経の傷も順調に回復していきました。 海辺を散歩する義経とシララの姿は、ほほえましい光景でした。
しかし、ここも義経にとって安住の地でなく、 一族の再興をはかる大望を胸に船出をしたのです。 シララは岩伝いに船を追いましたが、 折りから満潮となった大波にのみこまれてしまいました。 波間に沈んだかと思うとシララは浮かびあがり、 そのまま岩になったということです。
現在、"シララ姫の小道"と呼ばれる積丹岬周辺は、 奇岩の多いビューポイントです。

チャレンカも岩に。神威岩 (積丹町・余別)

ニセコ・積丹・小樽海岸国定公園にふくまれる積丹町余別の西岸の景勝地。

日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、 荒波にもまれて今にも難破しそうになりました。 義経は、神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると、 ふしぎなことに波も風もおさまり、無事通過できました。 一説には、平取のアイヌの娘、チャレンカもまた義経を慕って後を追い、 船の行く手をはばむために身投げしたのが、 立岩として残っていると伝えられています。

神威岬はその昔女人禁制の地といわれ、 女性が乗った船がこの辺りを通るとチャレンカの恨みによって、 必ず転覆したと伝えられています。 現在、神威岬への遊歩道は"チャレンカの小道"といわれ、 野鳥のさえずりを聞きながら散策を楽しめます。

「雷電」の地名は、「らいねん」?(岩内町、雷電)

義経一行は、雷電の険しい山間で当時のアイヌの首長チパの襲撃に遭い、 囚われの身となってしまいました。 勝利をおさめたアイヌの人々が、祝いの席を開こうとした時のこと。 突然祭壇の"イナウ"が倒れてしまいました。これは、 義経を捕らえた神罰と悟ったアイヌの人々は、 一行を手厚く介抱することにしました。

傷も癒え、やがて春が来て、旅支度を始める義経一行。 そんな光景を目に涙をいっぱいためて見守る少女がいました。 チパの娘、メヌカです。 義経を介抱するうち、いつしか恋が芽生えていたのでした。

とうとう出発の朝がきてしまいました。 泣きくずれて別れを惜しむメヌカを慰めて義経は 「来年はきっと帰る、それまでの別れだ」と告げました。 「来年まで待っているわ」。 二人の交わした最後のことば"らいねん"がいつからか「雷電」の 地名になったということです。

弁慶を慰めた雷電の海刀掛岩 (岩内町雷電・国道沿い海側雷電岬)

義経一行の中で力持ちの弁慶は、いつも頼り甲斐のある存在でした。 雷電まで来た一行がちょっとひとやすみした時のこと。 いつもは片時も離さない刀ですが、 弁慶は近くの岩をちょいとひねって刀を掛け。 いつしかこの岩を「刀掛岩」、 この岬を「刀掛岬」と呼ぶようになりました。 また、一行が雷電にしばらく滞在している間、 弁慶はしばしば磯釣りを楽しんだそうです。 そんな時も刀掛岩がおおいに役立ったということです。

弁慶のキャンプファイヤー?!薪積岩(岩内町雷電・国道沿い山側、雷電食堂後方)

衣川を脱出してきたのは4月の終わり。 やっとの思いでここまできたものの気温は低い。 まして岩内は、日本海沿岸のまち。追われる身には、 潮風も一段と厳しく冷たく感じられたことでしょう。 一行の暖をとるために、弁慶は薪を切っては積み上げ、 寒さに備えました。 この薪積岩は、その時の薪が化石となったものと伝えられています。 弁慶の用意周到な薪積み、 そしてキャンプファイヤーの豪快さが想像されます。

武器や財宝が眠っている?不落の洞窟 (岩内町雷電・刀掛岩の横)

刀掛岬を海伝いに船で南に回れば、 どこまで続くかわからないような洞窟があります。 内部の高さは約16m、幅4m、広いところでは20mほどで、 奥行きは約80m位まで確認されています。 以前迷って入った犬が寿都で発見されたことから、 洞窟は寿都までつながっていると言われています。

洞窟へは、船で渡るルートしかないため、 義経に関係のあったアイヌの首長チパが 武器や財宝を隠したという伝説が残っています。 刀掛岩の近くですから、弁慶が財宝の見張りをしていたのかもしれません。

また、この底しれない穴は「また来年」と言って 義経と別れたアイヌの娘メヌカが、 戻らぬ義経に失恋、 投身自殺をしたところとして「悲恋の穴」とも呼ばれています。

「この紋どころが目に入らぬか」 笹りんどうの隠刻石(岩内町円山、ニセコ岩内スキー場レストハウス前)

昭和63年5月、岩内町スキー場ロッジ前斜面にある大きな石に、 源氏の家紋といわれる"笹りんどう"が隠し彫りされているのが発見され、 拓本をとる作業に成功しました。

見つけたのは、 「義経・弁慶ロマンの会北海道」副会長の金沢一哉さん(札幌在住)で、 かねてから伝説の地に義経の隠刻を探し続けており、 これも石を撮影しておいたことが発見につながったそうです。 その後、ひと目でわかるようにと薄い青色で着色しています。

義経の兜が岩に?兜岩 (泊村兜、国道兜トンネル上)

積丹半島西岸の景勝地はカブトラインと呼ばれています。 そのほぼ中央にあるのが泊村カブト岬。 突端にはカブト岩があります。

この地を訪れた義経が、 世話になったお礼にアイヌの首長に金の兜を贈って去ったと言われています。 首長はそれをこの岬の洞窟に兜を大切に保管しておきましたが、 誰にも教えずに死んでしまいました。 忘れないでほしいという気持ちから、 岬に兜の岩を表わしたと伝えられています。

岩に腰をかけて、釣り。義経岩 (和琴半島)

弁慶が、刀をちょいと岩に掛けて釣りを楽しんだのは岩内でのこと。 それを見ていたのかどうか、義経も釣りすることがあったらしい。 和琴半島には、この岩に腰をかけて釣りをしたという伝説が残っています。

「はっけよい!」力自慢の弁慶の大相撲。弁慶土俵 (寿都町・糠森)

その昔、糠森そのものが弁慶の土俵だったということです。 土俵づくりに使った糠の残りが岩となって出来たそうです。 土俵の大きさは幅20m、周囲に30cmの土盛りがされており、 あたりには4本の柱の跡、弁慶が履いていた大きな下駄の足跡、 上方には義経が座った物見台もあったということです。

力自慢の弁慶は、相撲の相手を手加減しません。 勢いあまって投げ飛ばされた人は、崖下に転げ落ち、 鼻血で岩を赤く染めました。 近くの岩が"赤岩"と呼ばれているのはそのためです。 向うところ敵なしの弁慶も、義経を相手に相撲した時だけは、 尻もちをついて負けたということです。

寿都の海を見据える弁慶のまなざし。弁慶像 (寿都町・弁慶岬)

弁慶伝説の多い寿都町のシンボルは、やっぱり弁慶。 昭和63年4月、弁慶岬に高さ3.6mの大きな弁慶像が建てられました。 台座にはこの地で援軍の船の到着を待っていた弁慶の気持ちを表わす 「想望」の文字が記されています。 また、毎年8月第2土・日曜日には 「寿都湾弁慶まつり」が賑やかに開催されます。 義経や弁慶に扮し、 たいまつを掲げながら静御前の待つ寿都港までを パレードする光景は必見。

二つ森に埋められている金の銚子と盃?!弁慶岬二つ森 (寿都町)

弁慶岬の横に並ぶ小高いふたつの丘(二つ森)。 長期滞在をしていた弁慶がいよいよ腰を上げ、旅立つ日がやってきました。

お世話になった地元の人たちと別れを惜しむ最後の宴席でのこと。 弁慶は、秘蔵の金の銚子と金の盃を取り出して、 二つ森と糠森の間にある白桔梗の根元にそっと埋めました。 必ず生まれ変わって二つ森に戻ることを約束、 さらに「これを掘り出す者は、天罰が下るだろう」と言い残して 雷電岬方面へ静かに去って行ったということです。

熊に守られていた義経の黄金伝説。ラルマナイ滝 (恵庭市、恵庭岳麓)

昭和14年頃、恵庭岳の付近を流れるラルマナイ川にある滝近くで 大量の砂金が発見されたということです。 発見者は、古文書を解読探索の結果、発見したということです。 ラルマナイの滝をはさんで3ヶ所、 そのうちの1ヶ所に砂金があったそうです。

義経が牛若丸と呼ばれていた頃、金売吉次に伴われて奥州に下っています。 吉次は当時、奥州の金を京都に運ぶ仕事をしていたらしいのです。 吉次が発見した鉱山のひとつに山形県最上郡金山町にあり、 通称"吉次山"と呼ばれているそうです。 戦には軍資金が必要、案外吉次の得た黄金が、 義経の軍資金の一部として密かに隠され、 熊に守られていたのかもしれません。

石狩の恋物語を彩るハマナスの花 (石狩浜)

石狩にやってきた義経は、恋の遍歴をここでも続けます。 メノコと恋に落ちた義経は、 大望があるためにまた旅に出なければなりません。

別れにさいして、 彼女は石狩の浜に咲く真っ赤なハマナスの花を贈ったと伝えられています。

アウトドアクッキングの味はどんな味?〜アマシュケの岩燕伝説〜 (浜益町)

浜益はアイヌ語でアマシュケといいます。 アマムは穀物、シュケは炊くの意味だそうですが、この語源となったのは、 義経一行がこの地で飯を炊いて食べたということにあると 言い伝えられています。 この地でも義経は、アイヌの娘と恋仲になりました。

一行が去る時、義経に"娘の身代わりに"と老婆が2羽の岩燕を贈りましたが、 すぐに舞い戻ってきました。 なぜなら娘は失恋の悲しみが深いあまり、 毒を飲んで自害してしまったのだそうです。 岩燕は今も浜益の洞窟に棲みついているそうです。

伝説の里の憩いの場。義経公園 (平取町本町)

昭和11年(1936)に公園化が実現、昭和62年に歩道、車道の整備、 樹木の植栽、弁慶の池を造成するなど平成元年完成、 四季を通して町民の憩いの公園として親しまれています。

義経伝説にちなんだ弁慶池、弁慶橋、義経神社、義経資料館などがあります。 また、公園内には"北海道の銘木"樹齢300年以上の栗の木、 中心を流れるオバウシナイ川の清流など豊かな自然がいっぱいです。

義経のことならなんでもわかる。義経資料館 (平取町、義経公園内)

義経一行は、青森から北海道の白神(福島町)に渡り、 西海岸を北上して羊蹄山麓を廻り平取に入ったそうです。 平取に住むアイヌの人たちを外夷から守ったことから "ハンガンカムイ"と尊称されていたということです。 その後は、新しく部下に加わった若者や藤原氏の残党とともに 大陸に渡ったとも伝えられています。

平取町の義経公園には、笹りんどうの紋入りの陣太鼓、太刀や鎧、 「義経公北之方傅記」、 錦絵などさまざまな義経の資料が収められています。

ご神体の義経をまつる義経神社 (平取町、義経公園)

寛政10年(1798)近藤重蔵が東蝦夷地を探検した時、 平取に住むアイヌの人たちが、 義経を"ハンガンカムイ"と尊敬をこめて呼んでいたことを 知りました。

そこで、当時江戸神田で大仏などを作っていた橋善啓に、 義経公の像を作らせて平取に寄進安置したと記録に残っています。

木像は、高さ1尺ほどで、 ご神体とご神台の裏面にそれぞれの名前が刻まれています。 また、義経神社の紋章は笹りんどうですが、 これにちなんで平取町の町章にも笹りんどうが デザイン化されています。

祭りのハイライトを飾る神輿と武者行列 (平取町)

昭和3年義経神社に寄進されたもの。 屋根の頂上には鳳凰が置かれるなど豪華な装飾が施されています。 毎年8月15日の義経神社大祭には、 武者行列の中心となって担ぎ出されます。

サマイクルと12匹のオオカミの伝説 (本別町、義経山)

本別町市街地から約1・5kmにある義経山は、 昔サマイクル・サンと呼ばれていました。 サマイクルは人間の生活に必要な知恵を教える 文化の神のことです。

ある年、サマイクルは12匹のオオカミを引き連れて この山に住み着きました。 毎日のように出かける狩りには、 かわるがわるオオカミがお供します。 サマイクルは「チョー、チョー」とオオカミを呼ぶ集めましたが、 後にアイヌの人が犬を呼ぶ時に 同じ掛け声で呼ぶようになったということです。 さらに、サマイクルカムイが義経、 12匹のオオカミが従者だったといわれています。

義経が家の建築、狩猟、農耕、道具の作り方などを教えたため、 このように伝えられているのでしょう。

勇壮な自然美。弁慶洞 (本別町)

弁慶洞までは670m、約20分の気軽な散歩コース。 本別公園羽衣橋から本別川に沿って歩くと、すぐに"君待ち岩"。 そこからやや急勾配で弁慶洞へ。 ここも残念ながら地震の影響で危険のため登山禁止。 近くには"義経がつまずいたといわれている岩"もあります。

義経山神社

源氏洞のある義経義経山は登山口から1.4km。約50分ほどで頂上に着きますが、 現在地震の影響で登山は禁止されています。 山頂には「義経山神社」があります。山 (本別町)

義経像と弁慶像が仲良くお出迎え。義経の館 (本別公園)

初夏ともなれば、15、000株のエゾムラサキツツジが咲きそろう本別公園。 公園内には「義経の館」があります。

1階は、資料館として鎧や義経の文献などが展示されています。 また、義経像と弁慶像が並んでいます。 北海道に義経伝説は多いけれど、 両雄が並ぶのは珍しいかも。

「あっちっち」と義経が尻もち。尻餅沢 (羅臼町)

知床半島まで来た義経一行は、流れ寄った鯨の肉を焼いていました。 おいしそうなにおいが辺りに漂い、そろそろ焼けた頃かなと思ったとたん、 串が折れて火の中に倒れたので、義経はびっくり。 思わず尻もちをついたのでした。 これは、尻餅沢に伝わる伝説です。

合戦のノロシを上げたところ。知床岳 (羅臼町)

知床は別名オフイというそうですが、これはアイヌ語で"焼く"という意味。 義経が合戦の軍を集めるため、 この知床岳の頂上でノロシを上げたという伝説が残っています。

頂上付近には、義経が残したという焼き魚の串が石になったものや 網を引き延ばして干したものが岩になったもの、 弁慶に踏み潰された蛇神やそれを見ていた神が岩となったものなどの話が 伝えられています。

養子になって巻き物を強奪!雄冬岳 (増毛町)

雄冬岳に棲む魔力をもつメノコが、 日高のアイヌと争いを起こした時のこと。 義経は弁慶にメノコを投げ倒させたところ、 メノコは義経にすっかりひれ伏して養子にしました。

義経はメノコが大事にしていた秘蔵の巻き物を 取り上げてしまったというのです。 また、雄冬岬の近くにカムイオプトイというところがあり、 義経が着岸したと伝えられています。

そしてタイルベシベには、今でもマムシが多いのですが、 それは義経が置いた甲冑がマムシに変身したからだといわれています。

過激な若武者、義経。義経試し切りの岩(稚内市、宗谷岬寄りの海岸)

宗谷岬に近いオンコロマナイ(第2清浜)でのこと。 長旅の疲れも加わり、かつても勇将のおもかげもなく、 義経の姿はみすぼらしく見えたのでしょう。 アイヌの人たちに樺太に渡るための船を出してくれるよう懇願しても 真剣に聞く者はいません。 それどころか嘲笑する者さえいます。 怒った義経は、武将の面目を示そうと、 近くにあった岩を一刀のもとに切ったのです。

驚いた人々は、源氏の大将義経であったことを知り、 船を出して樺太に送り届けました。 アイヌの人々は、 この試し切りされた岩に一行の武運を祈願したということです。